酉(゚∈゚*)・・・01

突然ですが、昨年の9月いっぱいで前の会社辞めました。 
辞めるにあたっては色んな経緯があったわけで、これを取り立てて何にも無い日に連載しようと思います。 
隠語、遠まわしな比喩が多用されますから、興味のない人は読み飛ばしてくださいね。 
意味わからなくてイライラしますから。 
質問は随時受け付けますが。 

結局前の会社(以降、酉社(とりしゃ)と略す)には14年お世話になりました。化学の基礎、営業、ISO、安全衛生、マネージメントと、いろんなことを学ぶことができて、大変有意義な時間を過ごすことができました。 

じゃあなんで辞めたのかって? 
それはまたの機会に。


酉(゚∈゚*)・・・02

入社当時はいい会社だと思ってたんだよねー。 
いや、正確には、1997年T松部長が辞めた頃までだったかなぁ。 
その頃から、社長(以降、ケケと略す)が株式上場をするとか言い始めた。で、年間売り上げ目標が、そのときの会社の状態や世間の情勢に関係なく、前年比の5%とか10%UPと決まっていた。 
今考えるとすごいのは、それでも毎年ちゃんとクリアできていたこと。ケケの天運は認めざるを得ない事実だ。 
実際に頑張っていたのはまぎれも無く社員だけどね。 

しかし、世の中そんなに甘くない! 

ついに1998年の、俗に言う"忌まわしき11月"が来るのである・・・


酉(゚∈゚*)・・・03

1998年の"忌まわしき11月"は、はっきり覚えていないのだがその年の夏ごろだったか、私の同期のH君(以降、若様と略す)が突然辞めると言い出したことから始まった。 
彼とは同期入社であるが私より年齢は3つ上で、化学とドイツ文学でそれぞれ大学を卒業しているという変り種で、すごいヤツなのだ。とにかく頭が良い。 
入社後彼は技術部に配属されるが独自に経営関係の勉強をしていて、その辞める理由を問うと、当時の「酉社の経営状態が極めて正常でないからだ」と言うのだ。 
彼によると「酉社は年商・利益に対する借金の額がハンパでない」と。「現にこの年末にもボーナスを従業員に払うために更に無謀な借金をする計画である」と。 
私は当時、そんなことありえないと思っていた。彼の思い過ごしであろう、と。 
だって普通、経営者と呼ばれる人達は、きちんとした経営計画と現状分析をしていて、従業員に良い格好見せるためだけに返せる当ての無い無計画な借金をするようなことがあるなんてこと思いもしなかった。 
色々な経緯があってその後間もなくして、彼は思いとどまる決意を下した。彼なりに「考えもある」と。 

が、しかし、それは現実となってやってきたのだ。 
若様の予言(予想)どおり、会社はボーナスを出すどころか経営自体が先行かなくなり、年度末を待たずして同年9月「40人のリストラを決行する」と発表したのであった。


酉(゚∈゚*)・・・04

酉(゚∈゚*)・・・02にも書いたが、ケケの天運はすばらしい。 
当時はそれを「すごい手腕なんだ」と思っていたのだが、長いこと会社に居てこちらもだんだん成長してくると、それが手腕ではなく運だということがはっきりしてきた。やることなすこと偶然うまく行ったにすぎない。 
会社は最先端のベンチャー企業としてテレビの取材を受けたり、ケケはあっちこっちで優秀な社長として講演会で大忙し。当時若造の従業員だった私も「すごい社長だ」と騙されても仕方ない。 
その社長、とにかく良い格好しいなのだ。 
ちやほやされるのが大好きなのだ。 
逆に気に入らないヤツはみんな切ってしまう。 

そして、なによりケチだ。 

驚くことに彼の年収は4千万円であった! 
一昨年前に建てた我が家がキャッシュ一括で買える。 
私はあと33年ローンが残っている。 
定年後も払い続けなくてはならない。 
・・・マイホーム購入悲話もあとで触れるとしよう 

そしてケケの自宅は社宅扱い。車も社用車。 
でも「俺には全然金が無い」が口癖。 

普通、中小企業の社長は家族や親戚を役員にして給料を払い税金対策をする。これは一般的にもやられている正当な手段だ。 
しかし、その給料は税金を安くするために使った、いわば会社のお金・経費と同じであって、支払われた給料全額の中から自分の働きに応じた給料を差し引いた残り分は使わずにとっておいて会社の有事に使うもんだ、と、どの経営の教科書にも書いてある。 
しかしケケは、社員を40人もリストラするほどの有事だというのに、一円も出さなかったのだ!


酉(゚∈゚*)・・・05

そもそも、リストラしなくてはいけない状況を作ったは紛れも無くケケだ。 
前出の無計画な借金はもちろんであるが、山梨に移転後の無計画な雇用も無謀だったと言わざるを得ない。 
工場が新しくなったんだから人も沢山必要だろ、とでも思ったのか、リストラの年の1998年を含むたった3年間で、約40人もの新卒を採用した。 
その前まで60人ほどであったのが、あれよあれよと100人オーバーの会社になったのだ。 

私は当時営業部員であったので、技術部に採用されたその新人達とは、正直、ほとんど面識が無く、工場の状況も全くわからなかった。 
しかし、例えば各部署の課員10〜20人に課長一人とか、無茶な人事配置であったのは外から見てても分かっていた。普通、部下として面倒見れる人数は多くて5〜6人が良いところだろう。もしくは課長と課員の間にグループのリーダーを置くなど対策はあったはずだ。 
更に酉社は入社時にありきたりの社員教育を行った後は、一切の教育を行わない。分からないことはその都度先輩に聞け、と。先輩はよーく後輩の面倒を見ろよ、と。 
なぜかというと、社員教育という技術も意識も、元々役員達に無いからだ。それじゃ、しょうがない。 

当時の現場を知る人間に当時の様子を聞いたことがあるのだが、何にもしないでただ立っているやつが工場内にポツポツいるとか、荷物を持ったもの同士がすれ違えないほど人や物で職場が乱雑であった、という。 
あきらかに採用し過ぎだ。 

そんなに人数増やしてもそれに比例して売上が上がるわけでもなく、効率はむしろ下がったりして、でも彼らに払う給料やかかる経費は増大するわけで、どんどん会社の利益を食いつぶし、更には借金を膨らませ、結局その40人分を解雇することになったのだ。


酉(゚∈゚*)・・・06

リストラをしなくてはいけない理由は色々あると思うが、普通は、予想外の不景気とか、投資した事業や財テクに失敗などがあると思うが「雇用のし過ぎ」とは笑わせる。 
なぜ雇用のし過ぎが原因と言い切れるのか? 

酉社はめったなことで設備投資をしない会社なのだ。 
またケケは財テクが嫌い。(ということになっている) 
会社で絵や株を買っていた様子は無い。(前出の4000万の行き先は知らんが) 

また、当時の酉社は原価計算をしていなかった。 
これはどういうことかと言うと、製造原料に年間いくら使ったかとか、従業員に支払うギャラ、返済する借金、利益、それらの詳細が全く分からない。 
支出総計と収入総計しかない、くらいのイメージだ。 
1年活動して計算してみたらいくら儲かった、みたいな感じだ。 
そんなんだから設備投資なんてできっこない。 
予算を立ててないんだから、今、会社が儲かっているのかいないのかもわからない。だから設備投資に使っていいお金かいけないのかが判断できない。設備投資が生み出す現実的な支出と将来期待できる収入を比べる天秤が無いのだ。 
だから怖いので使わない。 

あ、今、思い出したけど、ケケの口癖は「酉社の最大の財産は社員」だった。 
雇用のし過ぎってことは、ある意味、ケケの財テク(そして失敗)だったのかも知れない。


酉(゚∈゚*)・・・07

ついに来てしまった解雇者の発表日。 
正確には新体制の組織の発表で、名前を呼ばれなかった人はすなわち仕事がありません、ということ。 

ケケの「技術開発本部 ○○が本部長、××が部長、□□が技術1課長、、、」という読み上げが淡々と進む。 
酉社は年功序列で役職が決まる会社であったので、役職順に読み上げられる名前は自然と年代順に呼ばれることになる。すると明らかに不自然に名前が飛んじゃうのね。 
「あ、あの人の呼ばれてない」ってすぐわかる。 
でもまさかそっちの方を見るわけにいかない。ただ、希望退職の場合もあるので、正確にはクビなのか自ら引いたのかはわからないのであるが。 
みんな下向いて黙って聞いてる。 

しかし、どう考えても欠かせない人の名前が数人呼ばれてない。 
あとで分かったことであるのだが、この人選は各部署の長が仕事上の能力を優先にリストを作成したのだが、最終的にはケケの判断でかなり補正されたのだ、と。 
単に気に入らないという理由だけで解雇された人間もいるのだと。 
後に、当時のリスト作成にかかわった長の一人に聞いた話では、ケケの補正したリストに対し長たちもかなり抵抗したのだという。しかしケケはがんとして聞き入れなかったという。

何様だ?! 

偉大なる将軍様か?!


酉(゚∈゚*)・・・08

今だから話せるが、実は私は事前に残れることを知っていたので自分自身の不安は全く無かった。 
なぜ知っていたかと言うと、約10日ほど前だったか、 
当時営業部員であった私に技術開発本部長(以下、じゅんパパ)からお呼び出しがかかり「実はともヶわに技術2課の面倒を見てもらいたい」と相談され、了承していたからだ。 

知らない人には突飛に思えるかもしれないが、酉社の人事採用はちょっと変わっていて、新人雇用時の配属はまず技術部なのだ。私も入社から約3年間はエンジニアであった。じゅんパパはその当時の上司だったし、プライベートでも一緒にスキーに行く、というお付き合い。そもそも酉社が愛川町にあった当時は社員数も50人以下で、部署が違ってもデスクは同じフロアのご近所さん。営業に移ってからも技術部員はみんな元直属の後輩という、小さな会社だった。 

また、じゅんパパに伝わっていたかどうかは知らないが、リストラの確か1年前くらいだったか、私は技術部への移動のお伺いを上司に申し入れ、副社長に却下されたことがあった。 
既出であるが第三者の私にも技術部の過密状態は薄々見えていた。明らかに管理職が足りていなかった。早く手を打たないと大変なことになる、と思っての申し入れであったが、売上重視の役員たちにとってそんな意見は通じる余地も無かった。 

なので、先のじゅんパパから相談を聞いて、正直私は、クビにならないで済むといううれしさは全く無く、「今更遅いよ・・・」という絶望的な気持ちが大きかった。


酉(゚∈゚*)・・・09

1998年のリストラ後の酉社は、それまでのにぎやかさとはうって変わってさびしい感じだった。人数が100人から60人になったからね。 
私は営業部から技術部にカンバックした。 

時も折、酉社はISO9001取得に向けキックオフが宣言され、今まで全く存在しなかった作業標準、品質管理に関する様々な規定、チェックシートなどの記録類の作成に追われる毎日を送った。このころから2000年ごろまでは最高に忙しかった。 

月曜日に会社に行ったらそのまま夜中の4時まで働き会社に泊まる。 
火曜日は朝8時半から通常通り仕事を始め、さすがに21時ごろ上がり家に帰って寝る。 
水曜日は会社に行ったらそのまま夜中の4時まで働き会社に泊まる。 
木曜日は朝8時半から通常通り仕事を始め、さすがに21時ごろ上がり家に帰って寝る。 
金曜日は朝8時半から通常通り仕事を始め、ハナキン(死語?)なので21時ごろ全員帰ってしまったあとの静かな職場で2時ごろまで仕事してから帰る。 
かみさんの体調が悪かったりすると、せっかくの家で寝れる日に19時ごろ上がって1時間かけて帰宅し、生まれたばかりの健を風呂に入れて、そのあと再び会社に1時間かけてトンボ返りし仕事を始め、そのまま泊まって2連泊、3連泊、なんてときもあった。 

この頃私30代前半、つくづく若かった。今考えても良く体力が続いたと我ながら感心する。 
更に言えばこの頃、休日にはプライベートのマーチングバンドもやってたのだから凄い。

こんなに働いていたが、残業は目減りさせて申告していた。かっこよく言えば会社への忠誠心がそうさせていたのだが、容易に凄い金額になってしまうことが予想されたからだ。 
一回間違って残業を正直に申告した月があった。 
その翌月、給与明細をもらって驚いた。 
残業代が例月の手取りより多かったからだ。(つまり2か月分以上の給料が振り込まれてた)


酉(゚∈゚*)・・・10

ケケ氏は酉社を設立する前は今は酉社のコンペとなっている会社に勤務していた。良くは知らないがその前の会社では労組で手腕を振るっていたらしい。 
私が酉社を就職先に選んだのは紛れも無くケケ氏のパーソナリティに共感したからだ。 

入社説明会ではケケ氏は熱く語る! 
大いに語る! 
「小さい会社で資産は無いが、財産は社員である」 
「仕事が終わったら大いに遊びなさい」 
「そのために時間も給与も精一杯出す」 
というような内容だったと思う。 
説明会の後は従業員との対話会。 
役員が全員退席し「私たちは良いことしか言わないかもしれないから、従業員の生の声を聞いてくれ」という更正な主旨。従業員もみんな若く、元気がある。 
その後は役員・従業員共々お食事会。説明会に参加している200人あまりの学生全員だ。それもロイヤルパークホテルの中華フルコースだ。 
お帰りには申告額より大目の交通費も支給された。 
当時は世間がバブリーであったのだが、職務条件、待遇、ぶっ飛んだ社長など、その時点で相当気にいっていた。 
その後、意外ととんとん拍子で入社が内定し、私は学業より吹奏楽団が忙しかったため、他の就職活動はきっぱりやめて入社を決めた。 

酉社は私が入社当時は40人足らずの弱小企業であったが、当時ではまだ新しかったフレックス制をすでに導入していて、勤務時間も8:30〜16:30と異例の短さだったし、「ゆとり創業企業」として県から表彰を受けていた。年末年始・GW・夏休みは最低でも9連休。時には11連休なんてこともあった。 
金曜日の定時後には社内のバーに軽食やおつまみやビールが飲み放題・食べ放題で振る舞われた。冷蔵庫には常にコーラが入れてあって休憩時間にそれは飲み放題。 
半年の試用期間を経て正社員となれば、その時点から有休も発生しボーナスもちゃんと出た。おまけに当時はかなり儲かってたので利益還元金も出た。 
例えば火曜日や水曜日の祭日などは先の大型連休に使われるので世間は休みでも出勤日になるのだが、そういう場合の昼食はいつもの仕出し弁当ではなく、とんかつやらステーキやらが振る舞われた。それも1枚5000円はするだろうという分厚いヤツだ。 

ずっと立ちっぱなしの職場なので、実勤務は結構きつかったりしたが、職場の仲間もみんな年齢が近く、かなり楽しんで仕事ができた。


酉(゚∈゚*)・・・11

ケケ氏は、社用車として会社が契約しているジャガーに乗って、社宅として会社が契約している自宅から、会社が支給した作業着で通勤してくる。 
午前中は読書。または会社のお金で買った芝刈り機を使って庭の芝刈り。 
昼はまだ11時50分なのに「いただきまーす」と社員に聞こえる大きな声できちんと挨拶してから会社支給の弁当を食べる。 
終わったら昼寝。
午後は芝刈りの続きか、窓からボーッと外を見てすごし、3時過ぎるとさーっと帰る。 
どこへ行くのかと言うと趣味の乗馬用の馬にやるための牧草の手入れをするために、社用車なのに草を積むためのキャリアやビニールシートや籠が積んであるランドクルーザーでさーっと帰る。 

休みの日は会社の別納プレートを使ってジャガーに乗ってドライブ。 
出張でアメリカに行けば息子の留学先に社費を使って訪ねて行く。 

やっぱり偉くならないと駄目だね。


酉(゚∈゚*)・・・12

◆リストラクチュアリング[restructuring] 
(1)債務者が当初の契約どおりに債務を返済することが困難になったとき、より返済期間の長い債務に切り換えること。 
(2)企業が不採算部門を切り捨てたり、新規事業に乗り出すなど、事業構造の転換を目指すこと。企業再構築。リストラ。 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 

一般的にリストラと言えば首切りをイメージするが、本来は上記の(2)を指す。すなわち"事業構造の転換を目指すこと"が大事なのである。 
が、酉社の行ったリストラは事実上、首切りと報酬カット。役員の報酬カットはもちろんのこと従業員も付き合わされた。 

その際、ケケ氏は「責任は私が全て取る」とか「会社が好転するまで精一杯頑張る」とか言った。 
しかし役員主導の体質改善や経営に関する改善はほとんど行われず、リストラ以降、経営に近いポジションに着いた前出の若様が行った改善がほとんどであった。役員はそれを了承していただけだ。 
そもそも40人のリストラも若様の算出による。 

結果としてリストラの1998年度以降、会社は経営を持ち直す。それは40人もの人件費を削減できたことが最も大きい。 
ケケ氏が行ったことと言えば、お詫びのしるしかなんか知らんが、リストラから半年間にわたって毎月1日の従業員の昼飯を家で作って持ってきた。 
ある時はグラム400円もする牛肉のシチューだったり、ワインをふんだんにぶち込んだスープだったり、究極は1本30万円のマグロの解体ショー。これはさすがに自分でするのは無理なので、魚屋さん付きだった。 

でも、全部、経費は会社持ちだった。 
何がしたいんじゃ!おのれは!


酉(゚∈゚*)・・・13

リストラを行った1998年度、及びその翌年、酉社の業績は結果として好成績に転じた。そりゃそーだ。 
ケケ氏は得意満面で自らの経営手腕を自慢気に話す。 
「責任は果たした」と。 
そのころ酉社は大きな転換機を迎えていた。 

酉社は創設者である3人、その3人と最も長く居る中途採用のじゅんパパ、その次はずーっと年代が開いて(年齢的に10歳くらい)新卒採用の世代となる。新卒採用は例年4人〜6人くらいで、前出の通りリストラの年に向かってその人数はうなぎのぼりに増えていく。 
新卒の中で一番古株のM氏は私と10歳違わない。(つまり私と創設者たちとは20〜25歳違うことになる) 
M氏は酉社のムードメーカで、私が新人時代からとても可愛がってもらった。彼は営業部長を経て酉社のアメリカ法人の社長となる。その彼がこのころアメリカ滞在での仕事に一定以上の成果を挙げ帰国した。つまりムードメーカというだけでなく名実ともに会社の牽引者であったわけだ。 

ケケ氏は会社経営が安定期に入ったと判断したのか、このM氏を新社長に(以下、新社長と略す)、前出の若様を副社長に任命し、自らは会長になる人事を発表した。 
ケケ氏以外の創設者2人とじゅんパパを飛び越えた人事で、私はついに酉社も能力重視の査定をできるようになった、ケケ氏が入社説明会のときから言っていた次の社長は社員から出したいという方針を守ってくれた、という思いで、とてもうれしかったのを覚えている。 
「私は若い2人を見守っていく立場」とも言った。 
確かに言ったんだ・・・


酉(゚∈゚*)・・・14

社長となったM氏はアメリカで培った手腕をますます振るう。 
来たるべく規模拡大に備え社屋を拡張。それまで2階建てであったのを4階建てに増設し、生産性、安全性に優れた設備を導入した。 
当然、借金の額も大きくなったが、それは将来への投資であり、従業員達も新しい若い世代に会社が移ってきている実感を感じていた。 

しかし、運の悪い事に、時も折、半導体業界は近年最悪の不景気を向かえる。 
酉社は売り上げの70%は半導体の業績に依存しており、半導体業界が下がってくれば、おのずと酉社の業績も下がってくる。 
ケケは若い二人に任せると言ったものの一向に上がらない業績が気に入らない。 
色々な細かい事にまで口を挟む回数が増えていく。 

それは若い二人にとっては口やかましい。 
そんなことはわかっている。黙って見ておけ、と言いたい。 

しかし、とにかくケケは何かと言うと「自分はオーナーである」という理由で役員会の決議を決めてしまう。 
当時の役員構成は、若い二人とケケ氏を含んだ創設者3人に会計士とじゅんパパ。 

創設者の残りの二人はいわゆるイエスマンで、ケケ氏に逆らう事は絶対にない。なぜなら、何も仕事をしなくてもケケ氏に賛同していれば報酬が約束されている立場で、あえてケケ氏に苦言を呈すような事をするヤツは居ない。 
私でも同じ立場であればなびいてしまうかもしれない。 
二人の仕事と言えば、一人は読書、一人は野良猫に餌をやる事。これで役員報酬が手に入る。おいしすぎる。 
雇われ会計士も似たような立場だ。月に一度酉社に出社し、ケケ氏に賛成していれば報酬がもらえる。 

こんな役員会の決議、多数決になれば若い二人には一切勝ち目は無く、結局、ケケ氏の思うように決議は進むのである。


酉(゚∈゚*)・・・15

一体いつ頃からケケ氏は暴君となっていったのであろう。 

そもそも元々ケケ氏はカリスマ性の非常に大きい人だった。 
入社を決めた理由を聞かれれば、正直、彼のカリスマ性に惹かれて入社したと言っても過言ではない。 
言う事はでかいが、確かにそれを実現させてきた。 
規定労働時間の少なさ(8:30〜16:30)、稼働日の少なさ(160日くらいだったか)、有休の多さ(年間最大40日)、フレックス制度の導入(しかも営業部はコアタイム無し)、入社年にはハワイ研修(という名の7泊旅行)、大企業並みの給料、 
etc...と、待遇面では中小企業ではありえない条件を実現していた。 

しかし今にして考えれば、私たちが"カリスマ性"だと思っていたその彼の技能は、単なるハッタリであったのだ。要は、何事もよくわからないので大声で張り上げて勢いで乗り切っていただけだったのだ。そしてそれを実現させていたのは前出の通り、"運"である。 
トラブルの際に奇跡的にそれを回避できた運、偶然に儲かる商権を見つけた運、そして何よりもそれらを実際に実現させる事ができたスタッフを雇い入れたという運。 
思い返してみると結局のところ、ケケ氏自体は何もしていない。 

決断の場面で彼から出てくる意見はいつも否定論から始まる。「そんなの無理だ」から始まる。そして議論の結果「そんなに言うなら君が良いと思うようにやってみろ」と言う。これは一見、社員を信用している社長のように見える。私もそうだと思っていた。 
しかしそれに失敗すると、こともあろうかケケ氏は「ほら見ろ」と言うのだ。 
これ、自分では何も出来ないケケ氏なりの防衛策だったのだ。 
あたかも議論したかのようで実は否定しかしていない。否定は簡単だ。相手が言った事の逆を言うだけだから。 
そして理解のある経営者のように社員に任せる。 
しかし失敗すると鬼の首を取ったかのような手のひら返し。こともあろうか社員の責任を追及する。 
「お前が大丈夫だって言うから認めたのに何だ!これは!」と怒鳴る。 

これなら私にも出来るよ・・・


酉(゚∈゚*)・・・16

ケケ氏の暴君度が極めて強くなったのは、やはり株式上場を口にし出した頃からではなかったかと思う。 
酉社として多少の波はあるものの、借金まみれではあったがようやく自社ビルを手に入れ、今考えればその頃、いよいよ自身の進退を考えていたのではないか?と思う。 
老後の自身の生活を保障するだけの金が欲しかったのだろうと思う。 

しかし悲しきかな、ケケ氏にはその実力が無かった。株式上場に向けて一度はスタートした中期経営計画も、1年後にその内容を評価するまでもなく自然に消滅してしまった。 
そもそもその経営計画だって根拠となる売り上げ予測は勘によるものだったし。 
で、前出の通り、"忌まわしき11月"を迎えてしまうのだ。 

この"忌まわしき11月"はなぜ"忌まわしき11月"と呼ばれるようになったか? 

リストラの年度明けの新年度の所信表明演説で酉社ナンバー2の副社長(以下ごんすけと略す)が、昨年のリストラを振り返って「あの忌まわしい11月」と称したのに由来する。 
そのときの従業員は一斉に「その忌まわしい事態を招いたのはお前らだろ!」とツッコミたい表情ありありだった。またリストラされた仲間のことを思えば、我々従業員があの11月の出来事を忌まわしいと思うことはアリとしても、経営者であるお前らには忌まわしいなどと言う資格は無いだろう、と。また、他人事のように忌まわしいとは何事か!と。 

結局この経営者たち、リストラの余韻も消えないわずか3ヵ月後に、すでに他人事なのだから、全く反省もしておらず、その5年後にはまた同じ失敗を犯してしまうことになるのである。


酉(゚∈゚*)・・・17

暴君ケケ氏の一番気に入らないところは、自分勝手なところだ。 
とにかく他人に対する思いやりが一切無い。微塵も無い。 
一見、みんなのためにやっているような行動でも、実はそれはみんなから感謝される自分に酔うためにやっているので、おおうにしてそれはありがた迷惑なことが多い。 
ホント、恩着せがましい。 

前にも書いたが、リストラのお詫びだかなんだか知らないが、毎月一回、お昼に社長の振る舞い料理を社員に提供した事があった。 
行為自体は悪い事ではないかも知れないが、それが結局会社の経費じゃあ、ねぇ・・・ 
でも本人は「丸一日煮込んだ!」という自分の行動に酔いしれて満足しているのだ。 

経費削減の一環で異常に残業低減を訴えた時もそうだ。 
「残業は少なくして自分の時間にしなさい。それが会社の経費削減意にもなるんだから一石二鳥だ」という論法だったのだが、社員の立場になれば、社員は何も好きで残業しているんじゃない。会社のために、ノルマを達成させるために、お客さんの要求を満足させるために、残業しているのだ。 
それをあたかも従業員の仕事効率が悪いからと決め付けたように「残業は悪だ!それは従業員のためにならない」と、従業員のためなんだってことをいちいち言う。 
従業員にとっては迷惑極まりない。 

さらに、こちらの配慮に対する感謝も無い。 
自分がそうだと決めたら、絶対に折れる事はない。 

社内の情報を密に取れ、というからPC網を整えても本人はPC嫌いだからと言って使わない。で、仕方なくケケ氏にだけはプリントアウトした文書を机の上においておくのだが、時々、読んでいなくて「俺は知らねー、そんなもの無かった」と言うことがあった。 
あと、何を思ったか社内の人間同士でメールで情報交換するのを禁止した事もあった。彼曰く「社内にいるんだからお互い顔を見合わせて打ち合わせれば良い」と。言ってる事は正しい。でも禁止する事ないじゃん。今の時代にメールを・・・。 
それに元々あんたが言ったんじゃん。社内の情報を密に取れって。


酉(゚∈゚*)・・・18

私が安全衛生の仕事をやっていたとき、ケケ氏ともめた事があった。 
そもそもこの安全衛生の仕事、リストラ前には会社として活動していたらしいのだが、リストラ後は現場が忙しくそれどころではなくなって、自然消滅していたものを私が自発的に再開したもので、つまりは始めた当時は正確には仕事ではなかった。いわば趣味だ。 

「安全衛生」とはみんなが安全に仕事が出来る環境を作る事であるが、言葉で言うのは簡単だが実現するのは死ぬほど難しい。いや、安全目指すんだから死んじゃいかんが(^^; 
どういうことかというと、「安全」は守らなくても仕事はできるのだ。 
例えばシートベルトをしなくても運転は出来る。保険に入らなくても運転は出来る。でも何か起こったときそれじゃ危ないから、シートベルトをする、保険に入るんである。 
仕事も同じで、保護めがねをしなくても薬品は扱える。でも何かあったら目に薬品が入るからめがねをする。 

会社で起こる事故は「労働災害」と呼ばれるが、労働災害の責任は間違いなく社長にある。仕事をするために会社に来ている従業員を事故で会社に来れない身体にしてしまう事は本末転倒だ。そこで会社のTOPである社長は、「仕事の成果は二の次で従業員の身の安全が一番大事だ」という姿勢を示す必要がある。 
保護具をしないで怪我をした従業員に責任があるのではない。保護具をしないような職場の環境を作った社長に責任があるのだ。なぜなら従業員は普通、仕事の成果を一番に考えるものだからだ。 
だから例え強制になったとしても"従業員の身の安全を守るために"会社は安全を最優先に考える運営方針が必要だ。 

長くなったので続きはまた今度。


酉(゚∈゚*)・・・19

栗鼠虎後に私が現場に復帰したとき、安全衛生委員会はどさくさにまぎれて消滅していた。そりゃそーだ。会社が安全に関する意識を持っていないのだから。 
昨日の日記にも書いた通り、従業員にとっては安全なんてどうでも良いんであって、栗鼠虎で仲間がいなくなって死ぬほど忙しいノルマのお仕事を何とか今日終わらせれば良いのだ。 

困った事にケケ氏は、安全に関する意識を全く持っていない人間なのだ。 
飲んでも平気で車を運転して帰る。 
いつだったか会社の前の交差点でバイクと接触事故を起こした事があった。その時はそのバイクの運転手がたまたま従業員の知り合いで、こっちの運転手がケケ氏ではなかったことにしてもらって事なきを得た。もちろん、そのときも飲んだ後だった。 

会社で危険なガスが漏れた
ときも「少しくらいは大丈夫」とか、新人の前で平気で言いやがる。「私の若い頃は毎日のようにそのガスを吸っていた」とか言いやがる。 
でもケケ氏の数年前に亡くなった息子さんは生まれながらに脳に障害を持っていた。誰も言わないけど私は、少なからずケケ氏が吸っていたガスの遺伝的な影響じゃ無いのか?と疑問視している。健とまことが生まれたとき、私はそれが心配だったので、まず手と足の指の数を確認した。マジで。 

そんなケケ氏なのだ。 

あるとき酉社の若者がカッターナイフで腿を切る事故が発生した。 
カッターでゴムチューブを切ろうとして、切れた後の手が勢いあまって腿を切ったのだ。幸い怪我は軽かったが、作業ズボンが切れて、腿も切れて、血も出た。 
実はこのカッターナイフ、便利なようで結構小さな切り傷の事故は多い。 
そこで、私はカッターナイフ自体の使用禁止を提案した。切削の作業は必ず保護具をして専用の工具を使う事、とした。例えば上記のようなチューブならはさみを使いなさい、と。で、持っているから使いたくなるのであって、じゃあ持つ事を禁じてみよう、と。 
私はあくまでも昨日の日記の通り、会社の立場で処置を打った。事故をゼロにするためにあえて過剰な措置を取った。そして時も折、酉社は会社の状態を第三者の会社に監査されており事故件数を毎月報告する義務もあったため、何が何でも事故をゼロにする必要があったのだ。 

そうしたらこともあろうかケケ氏からカッター禁止に関して"待った"がかかった。 
「子供じゃないんだから禁止する事は無いだろう」と。 

そんなことは私もじゅうじゅう分かっている。相手が自分の息子なら「ちょっとくらい怪我して覚えろ」と言ってカッターを手渡す。 
でも会社は従業員が"絶対に"怪我しない環境を作る義務があるのだ。 
だから私は会社の立場であえて悪者になろうとしていた。それを会社のトップが「まぁまぁ」と言う。 

そらー餅ベーション、下がるわ・・・


酉(゚∈゚*)・・・20

久々!
最近ブログ用にちっちゃなノート持ち歩くようになってその日の出来事をこまめにメモするようになったので、書くこと無い日が少なかったのでご無沙汰してましたが、先日古い日記を整理したので、再びまた書く気が沸いてきました。
やっぞ!はぁ!やっぞ!

それは唐突にやってきた。
朝から出張していた私が社に定時連絡をした時、営業の後輩から、先週の役員会での決定事項として社長と副社長の辞任が受理された、という発表が今日、全従業員になされた、という情報。
久々なのでストーリー忘れちゃってると思いますが、「社長」は新卒から昇格した新社長M氏で、副社長は私の同期の若様である。
私はその日、朝から直行で営業に向かっており、まさに寝耳に水の出来事であった。

さらに詳しく聞いてみると社長と副社長が辞任し、会長のケケ氏が社長に、会計監査役であったゴン助氏が副社長にそれぞれ返り咲くと言うもの。
どういう経緯でそうなったか、などは当然詳しく説明されるはずも無く、従業員にはその決定事項のみが伝えられた。

本当は出張など放っておいてすぐに帰社したかったのだが、そこは大人の責任として仕方ないから仕事を全うし、翌日夜に社に戻ると、いつもは遅くまで残業しているはずの従業員が余り残っておらず、事務所がガラーンとしている。

聞くと、某所に集結しているらしい。
早速そこへ向かうと、会社の中核がほぼそろっている。

酉社は、役員を除くと、M氏を長として私と5歳くらいしか変わらない世代が本部長から係長を占めており、中核と言えばこの連中、すなわち、何の経営計画も持たない酉社の役員の直下の連中であるから、事実上の執行部隊である。
各部署の長が全て揃っていると言っても過言でない。

まず、M氏になぜこういうことになったのかを問うと、以前より会社の経営についてぶつかっていたM氏とケケ氏(酉(゚∈゚*)・・・14参照)、堪忍袋の緒が切れたM氏と若様は月中の役員会の場でケケ氏に「もう手を出さないでくれ。こちらに経営させてくれ。でなければこちらが辞める」と引退を迫ったのだと言う。
しかしケケ氏に全くその気は無く、じゃあこちらが辞める、と言う話になったと言うのだ。もちろんM氏も若様も覚悟の上であったのだという。


酉(゚∈゚*)・・・21

突然の辞任を表明したM氏と若様。
そのあとの役員の対応は、普段の経営判断のぬるさに比べると驚くほど早かった。
酉社の経営資金はほとんど銀行からの借金でまかなわれていたので、社長交代の報告に役員総出で銀行まわり。
それから登記簿の変更もすぐだった。これは当たり前か・・・

残された我々はM氏と若様を再び会社に戻してもらうべく動いていた。
社員全員の辞表をそろえ役員に突きつけた。
しかし役員たちはガンとして引かない。

そこで役員たちは顧問弁護士に事態の収拾を依頼した。
M氏と若様の2人と顧問弁護士の打ち合わせが始まった。
休日にも関わらず心配して集まった従業員は別室でその打ち合わせの終了を待つ。
やがて打ち合わせが終了し、弁護士が我々従業員に状況を説明した。

その概要はこんな感じ。
・若い二人のしている事は社会人として大人としておかしい。
・会社はサークルではない。
・このような事態を作った(辞表を出して謀反を行った)責任を取って辞めるべき。

そこで私は軽くキレて弁護士に言い返した。
酉社は、使い物にならない役員をさておいて、参加している従業員の原動力で
動いていたからこそ、現在がある。つまり会社でありながらサークルなのだ。
確かにやり方はまずかったかもしれない。
しかしそのまずいやり方に追いやった役員たちのやり方もまずかったのではないか?

この事態を解決すべく役員は、今回の一連の経過を従業員に説明し、従業員からの質問に応答すると言う説明会を開催するとした。
かくして2003年6月30日に、運命の対話会が行われたのである。


酉(゚∈゚*)・・・22

2003年6月30日、運命の対話会は行われた。
ここまでの経緯を簡単にまとめるとこうだ。

・どんぶり勘定の経営で偶然ベンチャーの波に乗り会社が成長。ケケ氏は自分に経営手腕があると勘違い。
・世間が不景気になり、会社も借金が膨らむ一方で、何の画策も無いまま、一従業員(若様)に言われるがままにリストラで40人の首切り決行。
・リストラによる人件費カットに加え、偶然景気が上向き、結果として危機を脱した。ケケ氏は自分の経営手腕であると勘違い。
・これからは若い世代に会社を譲ると宣言。M氏が社長、若様が副社長、ケケ氏が会長に就任。
・次世代製品のために、社屋の増設・及び設備投資を行った。この結果として借金は更に膨らむ。
・M氏の戦略として、某社とのM&Aにより資金調達を画策。ケケ氏はその提案を聞こうともしない。
・世界的に景気が下降。酉社も当然、売上が落ちる。
・借金をしている銀行への言い訳が大変。
・M氏と若様がこれ以上の売上下降は致命的であり、早急なM&Aの実施が最優先と判断。ケケ氏に経営の主権をくれと主張。
・ケケ氏は聞く耳持たず、2人に辞表の提出を要求。
・2人はキレて辞表を提出。
・顧問弁護士が仲裁に入るも、お互いに主張を譲らず。挙句の果てにM氏側のやり方をサークルと酷評。
・ほぼ全ての従業員が辞表を手に2人のカンバックを会社に要求。
・役員が対話会を企画。

さあ、対話会の内容については次回以降をお楽しみに(^^;


酉(゚∈゚*)・・・23

2003年6月30日、運命の対話会はケケ氏の状況説明で幕は落とされた。
しかしその内容はひどいものであった。

言っている事は正しい。
だって、正しい部分しか言わないから。
自分がしてきた悪行は全てカット。

例えばリストラに至る経緯。
なぜ首切りしなくてはいけなくなったか、つまりは自分の経営の過ちは説明せず。
いきなり首切りする状況になったところから説明が始まる。
「若様が首切りのアイデアを持ってきたので、私がその決断をした。」
「従業員の首切りをした責任は私にある。」
「私はその後経営を頑張った。(具体的にどんな策をどのように達成したかという説明は無し)」
「その甲斐あって翌年は黒字に転じた。」
「従って責任は果たした。」
というのが彼の主張。

しかし以前にも説明したとおり、リストラ後の経営が黒字に転じたのは彼が頑張ったからではない。
いや、むしろ彼は以前と同様に何もしていない。
首切りによって人件費が削減できたのと、偶然景気が上向いたため。
そもそも、彼が取らなくてはならない責任とは、従業員を首切りに追い込んだ彼の経営ミスに対してのものである。

それから、M氏の辞任経緯に対して、当初は、M氏が辞意を示したからであって役員サイドからは一切要求していない、と説明していたが、この説明会では、M氏が社長に就任していた時期の売上成績が悪かったことに触れ、経営者の評価は会社の成績であるとうそぶき、自身が首切り状態にまで会社をおとしめたことは棚に置いといてM氏をこき下ろし、M氏からの辞意であったはずがいつの間にか解任と言う雰囲気に説明の内容が変わっていた。
しかも「役員サイドから辞任を要求していない」ところは嘘。
前出の仲裁に入った弁護士が「このような事態になった以上辞めるしかないだろうから辞表を出しなさいとM氏に言った」とはっきりと我々従業員に説明している。
また、これまた前出の通り、M氏が社長を勤めた期間は、世間全体が大きな不景気に飲み込まれた時期。誰が社長をやってても結果は大きく変わらない。

この説明を、詳しい背景を知らないで聞かされたほとんどの従業員は、恐らく信じただろう。なにせ、自分に都合の悪いところは省いてあって、言っている事自体は正論なのだから。
計算なのか天然なのかはわからないが、これが恐るべきケケ氏のトーク術なのである。
私もずいぶん騙された。゜(゚´Д`゚)゜。


酉(゚∈゚*)・・・24

インチキな説明が延々と続き、その後、質問タイムとなった。

「リストラの責任」について、「リストラに至った経営ミスに対する責任」を要求する社員に対し、「黒字に転じさせた事で責任は果たした」と主張するのみのケケ氏。全く噛み合わない。

若い子たちから「以前のケケ氏ならM氏から辞表が出てもそれを受け入れ許す寛容さがあったはずだ」と指摘されても、M氏から退任の意思が出てる以上、辞めるのは本人の勝手の一点張り。
しまいにや、辞めるときは一時の衝動ではなくきちんと自分や家族の行く先を見据えてから辞めるようにと、説教する始末。

私は「これから酉社はどこへ行くのか?経営方針を示して欲しい」と要求したが、得られた回答は「年度末に予定した売上を上げることと、近い将来、上場する事」だけであった。
そうではなく、例えば上場を目差すと言うのであれば、今と同じ事をやっていても売上が頭打ちである事は誰の目にも明らかで、そうなるとこれからも半導体に関わって新製品を開発していくのか、あるいは別の業界を見据えているのか、はたまた薬品やガス以外のビジネスに乗り出すなど、もっと中長期的な展望を更に聞くと、それはこれからの様子を見て決めていく、としか回答が無かった。
結局何も考えてないのだ。
このくらいの回答なら私にも出来る。

実はこの対話会の前日、つまり6/29に、この対話会の対策会議を行っていた。
その際、私は従業員がわずかながらに持っていたケケ氏への信用を失墜させる役目を負っていた。
そこで、上記のようなケケ氏の回答の後、やや唐突であったが、
「現時点で、3年後の会社の行く先が見えていないで上場を目差して経営してるってことですね?そんな経営者にはついていけません!」と絶叫し、更に
「目先の事しか見えていないのに、将来のプランを持ったM氏の提案には耳も貸さず、しまいにゃ会社から追い出してしまうとは、あんた、経営者としての器が小さい!いや、男としての器が小さい!」と言ってやった(ほぼ原文どおり)

ケケ氏は「どうして君は急にそんなこと言うのかな・・・どうして判ってくれないのかな」などと発言し、私が意地悪な発言を繰り返すと「はいはい、その件は改めて検討しよう」と言って、発言をさえぎりやがった。

私は文句を言い放った達成感と、得られたしょぼい回答からの虚脱感で、座席にドスッと腰を下ろした。

こんな様子だから、お互いが歩み寄る妥協策など当然見つからず、朝9時ごろから始まった対話会が12時を過ぎたあたりで、役員から強制的に会の終了を告げられた。
ケケ氏は会の終了に際して
「私たちは変わる。私たちは頑張る。それを見てくれ」と締めくくった。

と思ったら急に副社長のゴン助がしゃしゃり出てきて「M氏のした行為はジェーッタイ(絶対)許さない」とやや噛み気味に発言し、この「ジェーッタイ」がその年の酉社流行語大賞を受賞したのは言うまでも無い。

なおこれらの一部始終は、隠し撮りの動画で記録しており、今もCD-Rに焼いて保管してあり、全て事実である。(「酉社流行語大賞」の部分は嘘。しかし本当に社内で流行った。)


酉(゚∈゚*)・・・25

結局、対話会の後、更に交渉は進み、元社長のM氏は社員として、元福社長の若様は契約社員として酉社に留まることになった。
私もまだ酉社に居た。
変わると宣言したケケ氏は、全く変わっていないように見えた。
経営が変わっていないという事は、会社を取り巻く悪い環境も、それに対する対応も変わっていないことを意味する。

酉社は当時、半導体業界世界最大手のI社に製品を出荷しており、I社からも注目される企業であった。
「♪I社入ってる!」
I社に製品を納めるには数々の関門を乗り越えなくてはならない。

まず、製品が良くなくてはいけないのは当然。
その上で、製品の品質が安定である事、製造が安定でいつも同じ品質の製品が出荷できる環境があること。
I社の製品管理・品質管理は非常に厳しく、例えばI社におさめる製品を作る製造装置を1m移動するだけでも報告の義務がある。

また、会社の経営状態が健全である事。
経理上の成績が優良である事はもちろんであるが、安全衛生上の管理がされている事、会社が将来を見据えて経営されている事、万が一の事態を想定した危機管理がされている事、など、様々なチェックを受けて、会社自体が健全であると言う事を評価もらわなければ製品の納入が出来ない。

これらのチェックを乗り越えて製品を出荷していたのだから、なんだかんだ言ってもやっぱり酉社は優良なんじゃないの?という気がするが、それがどっこい!そうではなかった。

すでにこのコーナーでも取り上げたように、ケケ氏は安全に関する意識などこれっぽっちも持っていないし、将来のビジョンも持っていない。
行き当たりばったりの経営なのだから危機管理などできるはずも無く、不測の事態が起こればその場で会社は潰れちゃうような経営状態。
しかしI社の監査は、様々な苦労はあったが無事通過する。
なぜか?

他でもない。
I社との対応スタッフの一人であった私が言うんだから間違いない。
I社の監査を乗り越えるために、大嘘コンコンチキで塗り固めた報告をしたからだ。


酉(゚∈゚*)・・・26

米国大手の巨大企業I社は、ちっぽけな島国の酉社にすっかり騙され、酉社をもの凄い技術を持った将来性の有る会社と言う評価を下していた(^^;
そしてついに酉社の買収を企てた。
もちろん表面的には「経営資金投資の申し入れ」という事になっているが、事実上の買収予告。

酉社はI社のキャピタル会社より経営資金の投資を受け、3年後の株式上場を目差す。投資の時点で役員が所有する株式の半分はI社のキャピタルに奪われ、すなわち役員会にI社の息のかかった人間が入ってくる。
株式上場が成功した場合にはその投資を返却する必要は無いが、万が一、その途中で酉社の経営がこと行かなくなった場合、I社はその投資を利子付きで返却要求できる。

ん?返却?
プレスリリース上は「I社が酉社に投資」という事になっているが、条件を見る限りつまりこれは融資ではないか・・・

しかしM氏のM&A案に聞く耳持たず、国内の厳しい原料コスト低減の波に飲まれ売上も一向に上がらない当時の酉社は、いや、ケケ氏はこの条件を飲んで投資を受けてしまう。
でも仕方ない。だってお金が無かったんだもん。
この事実は2004年のGW頃の発表であったが、契約の同意自体は当然もっと前に行われていた。

私としては会社の行く末に非常に大きな不安材料がまた一つ増えたと言う感想。
頼りにしていたM氏は失墜し社内の権限も失っていた。
半導体の材料業界は非常に狭く国内で未開拓の顧客はほぼ無い状況で、π(パイ)の拡大は難しい。つまり酉社が売上を上げる要素は無い。
その上、嘘で固めた会社評価に対する出資を受けてしまい、ケケ氏には依然としてビジョンが無い。

そんな時、私が辞職を決意する決定的な出来事が起こったのであった。


酉(゚∈゚*)・・・27

私が辞職を決意した決定的な出来事、それは忘れもしない2004年2月2日(月)その日に起こった。

酉社は決算月が1月であるため、年度の初めは2月1日。
この年度の初めには、恒例の全体集会が行われ、ケケ氏は前年度の成績、及び、年頭に当たって翌年の目標を全社員に語る。

例年通りに前年の結果を淡々と語り、いよいよ今年の抱負を語るときに、いつもと違う事を言い出した。
「当社の経営方針を発表します」と。

私は内心、ついに今までアピールしていた事がやっと経営陣に伝わったと、心の中で小さくガッツポーズして、彼の発言に聞き入った。

「我が社の経営方針は、世界一信頼される企業になることです。以上。」

・・・

え?それだけ?

なんだそれ?

そもそも世界一の信頼って何の指標があってそれを達成したら世界一なん?

そこで手を挙げて聞いてみた。

ともヶわ「ケケさん、世界一信頼される会社になるとは、会社がどのような状態になったときですか?」
ケケ氏「それをこれからみんなで考えて行きましょう」
と「・・・(絶句)・・・」

と「じゃあ、質問を変えます。ケケさんは酉社がどうなったとき『我が社は世界一信頼される会社になったなー』と思いますか?」
ケケ「私がそう思ったときだ」

ガラガラガラ・・・

まさに私の心の中で何かが激しい音を立てて崩れ落ちた。
この「何か」は、私の中に最後に少しだけ残っていた会社に対する信頼だった。
例えば幼稚なものでも良いから、目標として目差しやすい場所を指し示して欲しかった。
例えば売上何億円、でも良かった。
例えば半導体業界全社への納入実績を作る、でも良かった。

会社の経営方針の到達地点が「ケケ氏の思ったところまで」というのなら、それは行き先も舵の取り方も知らない船長の船に乗ってオールをひたすら漕がされ、「船長!どこまで行けば休憩ですか?」と聞いたら「私が良いと思うまで漕げ!」と言われたようなものだ。
せめて「遠くに見えてるあの島までまず行こう」とか、「あと2時間で休憩しよう」とか言ってくれなくちゃ、漕いでるこちらのテンション下がるっちゅーねん。

私はその場で「ははは」と思わず声を出して笑っていた。
それほどショッキングな出来事だった。
「わかりました」とだけ言って、力なく席に着いた。

この夜、私はかみさんに「俺、酉社辞めるよ。まだ行き先には何のアテも無いけど、就職活動しながら酉社に通うよ」と告げた。


酉(゚∈゚*)・・・28

話が前後するが、これについては絶対に触れておかねばなるまい。
私はこれら一連のごたごたの中で、気が狂ったとしか思えないが、なんと家を購入している。

そもそも「家が欲しいね」という事で、近所の住宅展示場やらを視察に乗り出したのが2003年の春ごろ。そして気に入った物件にめぐり合い早速仮契約で手付金を100万支払う。
これが同年4月2日。

その物件は条件付きの土地であったのだが、自分で書いたマンガを設計士さんが図面にしてくれるという手法で、契約から約2ヶ月、ほぼ我々夫婦のアイデアどおりの図面が仕上がった。
ちょうどこの頃が、M氏の辞表提出から対話会の行われた激動の6月に当たる。

ようやく図面は完成したものの、今後の会社は全く予断を許さない状況になっていた。最悪、会社は潰れる。
家の販売会社からは毎日のように「建前はいつにしましょうか?」と電話が入る。私は「今ちょっと仕事が忙しいんで、工事の方はもう少し待ってください」と延命の言い訳をする。

私とかみさんは、今後このまま建築を進めてよいものかどうかと打ち合わせる夜が続いた。
そして6月30日の対話会の結果を受け、なんら明確な回答することができない会社に見切りを付け、ついに100万円の手付金をあきらめて、家の購入を白紙に戻そうという結論に達した。会社が潰れてはローンが払えないと判断したのだ。

するとまさにその翌日の7月1日、住宅販売会社から衝撃的な電話が入った。
「ともヶわさん、建前はいつやりましょうか?昨日、基礎の方は完成しましたので早く日程決めましょう!」

「な、何ぃ???」

その夜仕事を終え我が家の建設予定地に向かうと、確かに我が家の土台は図面どおりの配置でそこにあった。
私は呆然とおそらく10分以上その場に立ち尽くしていたと思う。
その翌日7月2日に撮った写真がこれ。

こうなっては仕方ない。
私は清水の舞台から飛び降りる覚悟で家の工事を続行する事に決めたのである。


【特別投稿】知らない罪

世間は偽装建築問題の承認喚問でにぎわっている。
もちろん偽装を実行した姉歯氏は悪い。
それを強要し指示した篠塚氏も四ヶ所氏も悪い。
でも本当に悪いのは木村社長であり小嶋社長であり内河所長だと思う。

木村社長は「今まで一所懸命やってきて、わずか一日で全てが無くなった」なんて、まるで他人事。
小嶋社長と内河所長は知らぬ存ぜぬの一点張りだ。

擁護するわけではないと言う前提であえて言うが、私は姉歯氏の立場が良くわかる。
会社と言う組織に所属すれば、多かれ少なかれ、こういうことは日常的にあるもんだ。

例えば酉社時代、私も知っていながら違法行為を仕方なくした事があった。
法律上は一緒に荷台に乗せてはいけないAガスとBガスを同じトラックで運んだり、高圧ガスを乗用車で運んだり、分析してない薬品に架空の分析証を付けて販売したり、手荷物で劇薬を運んだり、言い出したらキリが無い。

でもこれらの行動は、何も違法行為をしたくてした訳では無いし、私腹を肥やすためにしたわけでもない。
他でもない会社のためだ。

AガスとBガスを分けて運べば運送費が倍かかる。
手間も倍かかる。
だから混載する。

お客が急いで品物を持ってきて欲しいと言うときに、トラックが出払っていたら、仕方なく乗用車にボンベを乗せて毛布をかぶせて隠して運ぶ。

全数分析をすると、小さな会社はコスト競争で大手に勝てないから、多分これくらいの結果になるだろうと言う予測値で分析証を偽造する。

九州の顧客に劇薬を運ぶのに、わざわざトラックを手配したら、輸送コストが薬品代を上回ってしまうから、営業活動のついでにハンドキャリーでお届けする。

どれもこれも会社のためを思えばの忠誠心が法的な抑制を無視してでも行動に移させる。
乗用車でガスを運びながら、万が一、ここで俺が交通事故にあって車が大破するような事があれば、ガスが漏れて、地域住民に影響が出て、環境にも影響が出て、なんてことをいつも考えながら、でも車を走らせた。

でも法律は守ることが前提で、どんな理由があったにしても、守らなくて良い理由にはならない。
これを守らせることが出来るのは、ずばり社長だけなのだ。
社長が「売り上げなんてどうでも良い。まずは法を厳守しろ。」と指示するだけで良い。

私が酉社を辞めた理由の一つが実はこれだった。

ケケ氏はM氏に社長を譲った。
自分は会長になって統括する、と。
しかしM氏は結果を出す事ができなかった。
理由は世界的な不景気だったり、期間がたったの2年間だったり、自分が口出ししすぎてM氏の活動を制限した事などであるが、こともあろうにケケ氏はM氏を会社から追い出した。
つまり「やってみろ」と言ってやらせておいて、ちょっと結果が悪いと「ほらみたことか」という人間なのだ。

組織のトップとは、全ての責任を負うことが出来る人間に務めてもらわないと部下は困る。
いざとなったときに「私自体は関わっていない。全て部下が勝手にやったことだ。」という上司は、ホント死んでほしい。
仮に本当に知らなかったとしたら、それだけですでに罪だ。
上司には「知らなくてはいけない義務」があるのだと思う。

インチキな分析証はケケ氏が会社設立時代に自分で始めた事だから、知らなかったと言う事は無いだろうが、多分、違法にガスを運んでいる事は明確には知らないだろう。
でも社長はこれを知る義務があり、知らないなら罪なのだ。
それが社長なのだ。


酉(゚∈゚*)・・・29

私が退職を決意したころ、他にも退職者が続出していた。

まず若様。
彼は対話会の後、契約社員として酉社にとどまっていたが、そんな待遇に満足できるはずもなく退社していった。

それからM氏。
彼の場合は営業部員であったが、酉という船は沈没寸前、おまけに船長が行き先を知らず、舵の取り方も知らず、沈没回避の方法も知らないような状態に満足できるはずもなく、やはり退社した。

その後は元営業本部長KCK氏と、元技術部長のもう一人のM氏(ややこしいので、以後は昆虫博士と略す)。
更に総務部長のO君。
海外のI社担当窓口であったY君。
I社とのビジネスのマネージャーであったKちゃん。
営業の先輩S氏。
技術部時代の私と昆虫博士の直属の部下であったN君。

会社の主要メンバーの半分が退社した。
実はこの退職者が多数集って、新しい会社を作るらしかった。
そして私もそこに誘われていた。
しかし私にはもう一社、就職先のアテがあった。

このもう一社の社長は、実は酉社時代の営業の元後輩。
彼(以後、木木氏と略す)とは、彼が営業部に来て台湾を担当してまだ浅い頃、当時の酉社は台湾の顧客開拓をしていたので、一緒によく台湾に行った仲だ。
彼は忌まわしき11月、すなわち前回のリストラのときに、リストラとは関係ない理由ではあったが偶然同じタイミングで退社した。

彼から会社を手伝って欲しいと誘われたのは、もう4〜5年も前になるだろうか。
木木氏が実家の化学会社の専務になった頃だった。

しかしその頃私は、酉社の仕事が面白くてたまらない頃だったので「最低3年間はありえない」と断った。
まさか3年ほどで酉社を去ることは考えもしなかった。


酉(゚∈゚*)・・・30

私の就職先の候補は、M氏の新会社と木木氏の会社(以下、NE社と略す)の2社に勝手に絞られていた。
この"勝手に"というのは、NE社の場合は声をかけてもらったのがすでに4〜5年前で、今はもういらないと言われる可能性が高かったから。
なにしろ私は一回きっぱり断っている。

しかし日々の酉社の仕事は忙しかったので、就職活動は特に積極的にやっておらず、もしかしたら2月に退職を決意したものの、そのままずるずると続けていく可能性もあったのかもしれないのだが、そうはならなかった。
一旦、ケケ氏及び酉社に見切りを付けたら、あんなに楽しかった日々の仕事がつまらなくて仕方ないのだ。

私が従事した酉社の仕事は、技術、営業、ISO、安全衛生と多岐に渡る。
一番忙しかった頃は朝会社に行って深夜まで働いて、そのまま会社で5時間寝てまた翌日働いて、という生活だった。(支配人の古い日記「酉(゚∈゚*)・・・09」参照)
営業の仕事もハードだ。
営業だから当然残業なんて付かないのに朝早くから出かけて、夜まで客先にいる。
もっぱら移動は夜中になる。
それで帰社してから見積やら資料作りやら始める。
帰りが12時過ぎることなんてざらで、今日中に帰れれば早い方だ。

でも、これらの仕事を強制ではなく自主的にやれる雰囲気があったし、決してつらいだけでない"やりがい"や"面白さ"が確かにあった。
だから頑張れた。
これがなくなっちゃうと、仕事はつらいだけになった。
会社に行きたくないし、客先に行きたくないし、客先に行ったって顧客の要求に答えたくない。
だって近いうちに辞めちゃうんだもん。
「今お客に話している開発案件、実際に解決するときは、俺、居ないんだろうな・・・」
でも仕事は投げなかったという自負はあるよ。
大人として社会人としての責任は果たしたと思う。

とにかく日々がつまんない!

そんな日々に絶えられなくなって、こちらからキパーリ断った木木氏に、恥をしのんで電話を入れた。
「まだ、人手欲しい?」


酉(゚∈゚*)・・・31

今日、1/31は酉社の決算日だね。
なんとか目標はクリアできたようで、なによりなにより( ・∀・)

前回の続きから、、、
木木氏に連絡を入れ、早速会った。
そして端的に「あれから3年経ったけど、まだ入れてくれるか?」と聞いたら二つ返事で了承をもらえた。
その時は諸条件などは一切無しで決めてしまった。

その後何回か会って、そこではじめて私がする仕事やギャラの打ち合わせ。

正直、ギャラなんてどーでもよかった。
もちろん高いに越した事はないけど、酉社と同じギャラをもらおうと思ったら転職は無理だ。
それぐらい酉社のギャラは世間に比べれば破格に良かった。
ここだけの話、酉社時代の私のギャラは、700万オーバーだった。
今はその2割減というところか。

転職が決まり、私は2回目の辞表を書いた。
1回目は例の騒動のときね。
でも、このときの辞表は役員を脅すために元々出すつもりの無かった辞表。
内容もインターネットで雛形を調べて丸写し。

でも、今回の辞表は心をこめて書いた。

この辞表(正確には「退職願」)を提出したのは、くしくもあの対話会からちょうど1年後の6月29日。
そして翌日の役員会議で受理されその翌日の7月1日には私の退社がハピョーンされた。

案外、簡単なのね(^^;

 

酉(゚∈゚*)・・・32

洒落にならないくらい、○式上●が切迫してきている今日この頃、みなさんお風邪など召されません様に。

そんな挨拶は良いとして、前回から相当時間が経っちゃったが、前回は「辞表出した」っていうお話だった。

繰り返しになるけど、辞表は6月29日に上司の営業部長に提出し、翌日の役員会で即受理されて、その翌日の7月1日の朝の月例会で発表された。
発表のあと「マジですか?」とか「これからどうするんですか?」とか「これからどうしたら良いんですか?」とかいろんな子たちが声をかけてくれた。
私はその一人ひとりに精一杯誠意をこめて答えた。

なにせ私は酉社を捨てて出て行く身。
えらそうなことは言えない立場ではあるのだが、役員は殺したいほど嫌いだったが社員同士はまさに「同志」であり「良き友人たち」であり「かわいい舎弟たち」なのであった。
それに仕事に対するプライドだって持っていたし、基本的に酉社の仕事は大好きだった。

酉社は最先端の研究に貢献していて、例えば青色LED開発のあの人をはじめとする各社・各大学の研究者や、次世代ディスプレイである有機EL開発の各研究者とも商談を持つことができた。
あの有名なゲーム機のCPUを開発した人達から製造現場の人達ともお会いできた。
有名な専門書の著者たちとも普通にお話できた。
そんな最先端の研究者との貴重なお話が私は大好きだった。

だから彼らに対しても、また酉社に残してくる諸先輩・同僚、後輩達に対しても、私は退社のその日まで最大限の礼を尽くした。

私の退社希望日は退職願提出日より2ヶ月後の8月末日だった。
今度入社する会社の後期が変則的に9月スタートであることがその理由だった。
また退社まで2ヶ月あれば、おおむね引き継ぎは終わるだろうと考えてのことだった。
有休残はほぼ全数の40日ほど残っていたので、実質的には7月末日まで出社して、その後の1ヶ月は有休を消化するつもりだった。
しかし私が師匠と仰ぐ営業部の上司である犬βイ寸氏から、「頼むから9月末日の退社としてくれ」と懇願され、了承した。
じゃあ今度の会社には悪いけど、退社を1ヶ月伸ばして8月末日まで勤めて、あとは有休を消化すればいいや、と思っていた。

しかし!
しかしである。
顧客の引継ぎ業務やら、社内業務の引継ぎやらが終わりゃぁしない。
逆に言えばそれほどのお客さん、それほどの社内業務に関わっていたんだ、と変に納得。

結局私は、8月のお盆の時期に通常より長めの2週間の休みを取った以外は、今までの14年間となんら変わりなく就業し、なんなら退社日に向かってその忙しさはうなぎのぼり。

最終週は特にひどかった。

9月29日は深夜2時帰社(帰宅は2時半)、そして退社日の30日の最後の顧客へのレポートは実に深夜23時半であった。しかも新規の開発案件。私にはもう全く関係ないやん!
29日も30日も、これからの自分には全く関係の無い営業1課の翌月の営業数値(目標)の設定会議に立ち会っていた。
そんなんで極めつけは退社日の退社が深夜24時30分。
つまり10月1日の早朝0時30分に酉社を退社して帰宅、なんやかんやで2時ごろ就寝し、その3時間後の5時には起床して6時には新しい会社の入社に家を出たと言うわけである。

同じ日に退社と入社を経験した。

でもね、何度も言うようだけど、仕事や仲間は本当に大好きだったの。
だからこんなにつらいようなことだって、当時も全く苦じゃ無かった。
むしろ名残惜しさと充実感が混じった、一種の達成感があった。
少なくとも「立つ、あとを濁さなくて済んだ」と自己満足にひたっていた。

 

酉(゚∈゚*)・・・33

いよいよこの連載も佳境でっせ!

有休の大半を残したまま、次の会社の入社日当日まで前の会社で働いていた私に、酉社はとんでもないご褒美をくれた。

今私が勤務するNE社と酉社は仕事上の取り引き先であった。
正確にはNE社が酉社の産廃を運ぶという仕事をしていた。
NE社の社長「木木君」は元酉社の出身で、酉社を退社後にNE社の創設者であった父の後を継いだ2代目社長である。
彼がNE社の営業としてあらわれ、月に一度、酉社の産廃を回収に来ていた姿を、酉社の社員時代によく見かけていた。
ケケΦ氏もそういう時は男気があるかのように「まあ、君も酉社のOBとしてがんばんなさい」なんつって。
でも読者の皆さんはもうすでにお気付きの通り、いつもの単なるエエかっこしいなだけなのだ。

酉社の退社を決意し、NE社にお世話になることを決めたとき、私は最悪のシナリオを予想し、木木君にその時点で謝罪した。
それはとちくるったキチガイ社長ケケΦ氏の報復がありえたからだ。

いまわしき11月を乗り切り倒産の危機を救った若様をキチガイ呼ばわりしてクビにして、自分では経営計画を立てられないくせに経営計画を立ててきた元社長のM氏に会社乗っ取り容疑をかけ、世界的な不景気の時期に経営不振を理由にしてばっさりクビにして、化学会社なんだから少しくらいのガスなら漏れても吸っても大丈夫と言い切りながらISO14000取得を目指し、労災を隠して決算を粉飾して世界一の半導体会社に取り入った結果"資金が入ってる"、そんなインチキペテン師で人間不信の無能社長ケケΦ氏が、私がNE社に行くことをヘッドハンティングだと勘違いして、NE社との契約を打ち切ったりしたら・・・と考えたのだ。

在職当時、ケケΦ氏に言うべきか言わざるべきか、上司の犬βイ寸氏にも相談したのが、今のケケΦ氏には言わない方が良いだろうという共通認識で一致した。
また今だから言えるが、木木君はケケΦ氏に挨拶に行くと決めていた。
彼はなんだかんだ言ってもケケΦ氏を尊敬していた。
余談だが、彼の作業着はNE社のカラーでものではなく、酉社のカラーのものを社内で一人だけいまだに着ている。
しかし私は止めた。
ケケΦ氏が逆上してNE社との年間150万の契約を破棄する可能性が高かった。

しかし、そんな不安は最悪の結果として的中してしまう。
私の退社後、ケケΦ氏に私の転職先がバレたという情報が酉社の知人から入ったのとほぼ同時に、酉社から産廃回収の依頼が途絶えた。

そんなとき、酉社関係者の葬式の場で、ケケΦ氏、犬βイ寸氏、木木氏、私が遭遇する。

 

酉(゚∈゚*)・・・34

酉社関係者の葬式で、ケケΦと太βイ寸サソ、そして木木君と私という組み合わせで遭遇した。
私が木木君のNE社に転職したことは、ケケΦにはいまだ正式には伝えていなかったのであるが、実はこの葬式の寸前に太βイ寸サソから「ケケΦにはうまいこと言っといたから」と聞いていたので、我々は晴れてケケΦの前に現れることができると、内心ほくそ笑んでいた。

木木君はケケΦに「今度、ご挨拶にお伺いしたい」と申し出て、ケケΦは「はいはい」とそっけなく答え葬儀場を立ち去った。
ケケΦが去った後は、鬼の居ぬ間にとばかりに、さながら酉社の同窓会と相成った。
基本的に社員同士にはしがらみは無いからね。

葬儀が行われたのは10月の早々であったと記憶しているが、10月の2週目あたりに太βイ寸サソよりチャット連絡があった。
なぜかケケΦが大激怒している、と。
早く会いに来たほうが良い、と。

なぜ?
何に対して大激怒?
うまいこと話が通っているはずでは???

何がなんやらわからないまま、とにかく頼みの綱の太βイ寸サソの言う通りに従い、ケケΦに電話を入れた木木君に対し最初は居留守を使い電話に出ず、やがて電話に出たかと思えば「君とは会いたくない」と一方的に宣告された木木君。
それでもなんとか食い下がりなんとかアポイントは取り付けた。
それも最終的には「君には一言、言いたいことがある」と支離滅裂な理由。
会いたくなかったんとちゃうん!!

とにかく、ケケΦとの一騎打ちが実現することになったのである。

 

酉(゚∈゚*)・・・35

ケケΦとの一騎打ちの前日、私と木木君は作戦会議。
しかしあのキチガイがそもそも何に激怒しているのかがわからない。
結局、言われるがままに謝ろうというめっちゃネガティブな方針に決定。
仕方ないよな。
なにせ年間200万のお得意様なんだから。

で、当日、いよいよケケΦを訪問した木木君。
そこであのペテン師が言ったことの要約はこんな感じ。

まず、挨拶に来ると言ったきり全然会いにこないじゃないか、というもの。
でも「今度ご挨拶に伺います」と宣言してからまだ10日しか経ってなかった。

そもそも激怒していると聞いてアポイントを取ろうと木木君が電話したときもおかしかった。
「君には会いたくない」と言われたが木木君がそこを何とかとお願いすると「別に急いでないからいつでも良い」と言い、じゃあ例月、月末に行っている産廃回収の時でどうか?と伺うと「それじゃ遅い」と言い、しまいにゃ「君には一言、言いたいことがあるからなるべく早くが良い」と言い出すトンチンカンチンぶり。

でも、お得意様の社長さんが挨拶が遅いとおっしゃるなら、と、作戦通りに平謝りの作戦を決行した木木君。

すると今度は「仮にも社長ともあろうものが、言われたことに低頭で自分の意見を言わないとはどういうことか?」といちゃもんをつけてきたと言う。

ケケΦの口撃は続く。

「ともヶわは酉社の大事な幹部である。それを取引先の君が雇い入れるのに、私に断りが無いとはどういうことか?」と。

でもね、お言葉を返すようですが、じゃあ「今度ともヶわを雇い入れたいと思います」と木木君が言って、ケケΦは「あーそうなんだ、じゃあよろしくね」とでも言うと言うのか?
現にあんた!私の転職先が発覚した直後に、「NE社へ産廃回収依頼を出すな」と、産廃担当のS君に直々に指令を出してるじゃないか!
あと資材課長(当時)のS氏にもNE社以外の産廃業者の選定をさせてるじゃないか!
酉社内に張り巡らしてある俺の情報網をなめんなよ!
ちゃんと全て知ってるんだ!

以前にもここで書いたとおり、そもそも木木君は私を雇い入れると決めたとき、ケケΦに挨拶に行きたいと言っていたが、私と太βイ寸サソで止めた。
それはケケΦの報復を恐れてのこと。
そしてそれは予想通り現実となったじゃないか!

つまりそれは、私の退職が決まった7月に例えば木木君がケケΦに挨拶に来たとしよう。
それはそれで恐らく大激怒だろう。
どんな文句を付けるかは、もはや我々の想定外であり全く予測できないが。
でもNE社との契約を今回と同じように即切りしただろう。

そうなると私は、退職までの3ヶ月をケケΦと顔を会わせながら居心地悪く酉社で過ごし、まだ入社もしてない会社の契約を打ち切る原因になるわけで、NE社にとっても大迷惑であり、まさに板ばさみだ。

そして更におちょこケケΦは木木氏の経営姿勢まで罵倒した。
「社長としてなっていない!」と。

ここではっきり言っておこう。

私が見切りを付けたのは、酉社の行く末でも、仕事でもなく、紛れも無くケケΦ、あんたを見切ったのだ!
現レベルで比べても、経営者としてあんたは木木君より劣っている。
それを偉そうに上からの目線で説教くれるとは、ちゃんちゃら笑わせる!

何様だ!
バカ野郎様か!

 

***酉(゚∈゚*)編、これにて完結***

 

【その後の退職者情報】その1

一昨年の大量離脱の時も酉社にとどまって今までがんばっていた粟ちゃんこと粟原サソ(仮名)が、ついに退社することになり、今日、追い出し会が開催された。

私には酉社に潜んでいる情報部員より連絡が入っていたので、乱入する予定でいたのだが、こんなときに限って3時過ぎに今日中に片付けなくてはいけない急ぎの仕事が入ってしまい、結局、会社を出れたのが8時過ぎになってしまった。

情報部員より2次会情報を受信し、なんとかそれに間に合うようにいったん家に帰って車で会場の八王子に向かう。
八王子に着いたらすでに23時を回っていて、あまりにも腹が減っていたので八王子駅前の松屋で超遅い夕食。

急いで平らげて店を出ると見慣れた顔に出会った。
酉社時代の上司で大先輩のガカガワサソだ。
お久しぶりでーっす!と挨拶すると、横に粟ちゃんも居るじゃない!
聞くとガカガワサソが車で粟ちゃんを送るところだと言う。
ギリ間に合った。

「どうしたの?こんなところで」
という粟ちゃんに、
「いやー偶然松屋でメシ食ってたんですよ」
と白々しく偶然を装い、少しお話しをして握手で労をねぎらった。

粟ちゃんは私のイッコ上で、上司というよりは同志というほど付き合いも長い。
何しろ知り合ってもう15年以上になるからね。
昔の愛川時代を知る良き仲間だ。

私らエスケープ組みが辞めた後も酉社に残り、技術本部長やISO14000関係の責任者などの重要な仕事を歴任されたそうであるが、酉社がここでは言うに言えない状況にいよいよなってきて、その責の重さを負うことができないということで辞めるのだそうだ。
行く先も決まっていないらしい。

しばらくゆっくり休んで下さい。
本当にお疲れ様でした。
今度はとりせんでお会いしましょう。
(とりせんは酉社OB会の名称です)

それにしても、古い生え抜きの社員、減ったねー。

今は役員の田丁田サソ
プロレス同好会仲間のガカガワサソ
営業本部長の太βイ寸サソ
資材の恵比寿サソ

残ってる生え抜きの先輩はこれだけ。

私の社員番号が47番だったから、ざっと40人以上の先輩が抜けたことになる。
これを見ても、いかに人を育てることができない会社なのか、よくわかる。
気付いた人から辞めていく。

ま、役員だけで楽しくやったらええがな ┐(´∀`)┌

【その後の退職者情報】その2

この前の送別会がGW前の粟ちゃんの時なので、カラオケ部のメンバー以外とは3ヶ月ぶり。
今回は分析課の[+]Φと、若い方の菅腹の二人。

[+]Φ(読みにくすぎるか・・・)は、新卒が大半の酉社では変り種の中途の子。
だからって、あんまりバリバリ仕事するタイプの子じゃなかったが(失礼!)なんとなくほっとけない雰囲気をかもし出してる子だった。
若い方の菅腹とは、彼が入社して私が退社するまでのわずか半年ほどの付き合いだったが、その後数回行われた送別会のたびに会っていて、むしろ酉社時代より退社後のほうが会話があったくらい(^^;

1次会は19時半から八王子でと聞いていたが、当然これには間に合わないので2次会からの参加を内示しておいた。
なんとか早めに会社を出て、自宅近所のスーパーの花屋さんで花束を購入。
ここの花屋さん、予算を伝えて花束を作ってもらうのだが、思っていたより良い物を作ってくれるので、いつもここを利用している。
酉社在籍時代も、何人か辞めて行った子には、都合が付く限り花束をプレゼントしてきた。
もちろん女の子だけだけど。

あ、確か、ナベとえりのときはかけつけるのが精一杯でプレゼントして無かったかも。
ごめんちゃい

そんなわけでバスを途中下車して花束を購入して、再びバスに乗って帰宅すると、そう言えば今日は「ハウルの動く城」テレビ初公開で、健が夜更かしして起きていた。
ハウルなんて、それこそこの前もDVDで見たばかりなのに、わざわざなんでTVで見たいのかと思いつつ、気がついたら一緒に見てた・・・(−−;

すると情報部員のみかりんから電話&メール。
2次会の詳細を知らせてきたので、あわてて出かけた。

八王子に到着し、そう言えばまだ夕飯を食っていなかったので、吉牛でディナー。
すぐそばの会場に入ると、いつもは1次会後半で酔いつぶれることの多い[+]Φが、なんと元気に起きてるではないか!
良かった、花束を直接渡せて。

会場では、さっきも登場のナベを帯同した久イ呆田夫妻や、アメリカ帰りのTKTなど、懐かしい面々とも会うことができた。

で、気がついたらもう3時。
ぼちぼち眠気も沸いてきた。
じゃあ、またね(いや、また送別会でって意味じゃなくって(^^;)ってことで、解散してもうひとつ気がついた。

[+]Φと、全くお話ししてなかった・・・

 

 

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